バンコクヨーグルト

 何年か以前のこと。妹が関東の方でまだ学部生をやっていた時代。東京に出かけた時に、一晩泊めてもらったことがある。起床したら、彼女は既にセブン・イレブンの早朝バイトに出た後だったので、適当に冷蔵庫を物色した。その際、ヨーグルトを見つけたので、朝食代わりにいただいた。
 後日、母親経由でクレームが届いた。曰く「私が一週間かけて食べるはずだったものを、兄ちゃんに一日で食べられてしまった。ぶちぶち」と。頂戴したのは、500mlの一パック丸ごとであった。何せ、僕はプレーンヨーグルトのあの酸味や触感が大好きなのだ。
 タイでは食用としての牛というのは認知度が低い。必然、肉のみならず乳製品もあまり人気がない。その価格も高い。さすがに牛乳は普通に国産品が並んでいるが、バター、チーズとなると輸入品になる。オーストラリアからやって来たクラフトのスライスチーズ12枚組が100バーツ(約270円)したりもする。
 ヨーグルトはと言えば、コンビニの冷蔵ケースにも並ぶくらいに普及はしているのだが、それらにはイチゴやブルーベリー、あるいはナタデココやコーンや蓮の実などが混ぜられ、甘味が添えられている。こういうのも決して嫌いではないのだが、毎日食べたいとは思わない。
 プレーンヨーグルトの酸味は、ここしばらく遠い存在だった。
 友人からヨーグルトを分けてもらった。カスピ海出身(本人も定かではないらしい)、鳥取経由、流れ着いてバンコク、という漂泊の歴史を持つ白い半固体である。これを自分で増やせるのだと言う。
 実はこのヨーグルト、初めて出会ったのはその友人の家。食後に冷蔵庫から取り出してきて、お手製なのだと言われたのだが、その彼女の部屋というのが、僕がこれまでの人生で足を踏み入れた中で、二番目にとっ散らかった家だったので(一番は大学時代の同級生のマンションだ。床に散乱する無数のレジュメに交じって、鰯の缶詰の空き缶が特有の匂いを放っていたのが印象的だ)、にっこりと微笑んで「お腹いっぱいだから」と丁寧に遠慮した。たぶん、この家で牛乳が凝固するのは、乳酸菌やビフィズス菌などではなく、部屋に漂う得体の知れない物質のせいに違いない、と危ぶんだのだ。
 が、その内にその家もそれなりに落ち着いてきたようで、それでもなお牛乳は固まり続けていた。何より、常食しているという彼女が体調を崩した風もない。
 なので、その後しばらくして、再び勧められたときには、半ばおそるおそるではありながらも、ありがたく頂戴した。先方にとっては、自分がもし種をダメにしてしまった場合の保険として、友達に分けておくという意味合いもあるらしい。
 アドバイスに従い、スプーンと器を熱湯消毒して、新鮮な牛乳とこれを混ぜる。バンコクの室温で半日も放置しておけば、立派にふるふるにできあがっている。食べる前に、一すくい、翌朝分の種として仕込んでおく。
 そのままとろとろ口に運ぶこともあれば、皮を剥くと果汁が滴り落ちるマンゴーだとか、屋台で買ってきた切り売りのパイナップルなどの、甘めの果肉を混ぜて食べることも。果物を買いそびれた日は、蜂蜜を少し垂らして混ぜたり。
 今日の夕方、せっかくだからこれを使ってお菓子を作ろうと思い立ち、好物のレアチーズケーキを作ることに決めた。とりあえずゼラチンを買ったのだが、やはりクリームチーズは高価で、さらにその時点で面倒も先に立ってしまい、あっさりとヨーグルトゼリーに転向。
 実は今、冷蔵庫の中では、ボールに空けた赤ワインに、オレンジ・マンゴー・パイナップル・ライム(そしてスパイスにシナモンスティックと八角)が漬かっている。これはサングリアなのだが、明日取り出すこの果物を砂糖と合わせて火にかけ、あまり煮詰めることをせず、果物らしさを残す程度のコンポートにして、ヨーグルトゼリーに添えようと企んでいる。ここにミントの葉を飾れば色も美しい。
 罪滅ぼしに、妹にでもご馳走するべきか。


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