30年の後に

 これから数週間、東南アジアをまわるという人がまずバンコクに着いて、僕と一緒に食事をすることになった。正直なところ、その彼女とはまったく面識がない。事前に、「友人の娘さんであるところの大学生が行くので、よろしく」という連絡が母親から送られてきていたのと、待ち合わせについては直接本人とメールのやり取りをした程度だ。
 どういう所へ案内しようかと考えて、つい最近評判を耳にしたばかりの「ナート」というタイ料理屋を選んでみた。バンコクの日本人友達と、タイ料理屋の新規開拓をすることは、まずない。だから、興味を抱く店があると、日本から人が来るのを待つ。何が食べたいかと訊ねると、当然ながらその返答はタイ料理である。
 宿でピックアップした彼女とタクシーに乗り、コンヴェント通りの中程まで。入り口に立つ店員に迎えられると、小さな花輪が手渡された。一歩踏み入れた店内は明るく、王宮にあるような天使の像から水が流れていたり、調度品や食器類はいかにも「お安くはないですよ」という雰囲気に満ちていた。だけど、僕はその内装や雰囲気、店員の態度に好感を持ったし、何よりも、どの料理もとても美味しく、丁寧に作られていることが分かる味だった。
 シンハビールのグラスを傾け、各々のお皿に盛られた白いご飯に、テーブルに並んだ料理をのっけて、フォークとスプーンとで口に運びつつ、これからの旅の予定だとか、バンコク生活についてだとかについて会話をしながら、話題は親どうしの関係に至る。そこで、キブツの仲間だったということが判明する。
 大学紛争華やかなりしあの時代に学生生活を送った僕の母親の青春は、イスラエルと深く結びついている。ヘルメットをかぶり、ゲバ棒を掲げて機動隊と闘ったり、あるいは四畳半一間のアパートに同棲してギターを弾くといった、そんな生活ではなかったようだ。大学に休学届けを出し、船で横浜からナホトカへ。広大なソ連を渡り、ルーマニア、ブルガリア、ギリシアを経てイスラエル入り。キブツで一年近くを過ごし、帰路にはトルコ、オランダ、ノルウェイ、西ドイツを回って羽田。
 僕は子ども時代から、ふとした折にそういう話を聞いて育ってきた。家にはヘブライ語の本があった。当時の友達が遊びに来ることもあった。日本人もいれば、そうでない人たちもいた。そうやって直接、間接に照射される情熱から、あの時代がどれだけの意味を持っているのか、僕は伺い知っている。
 そこから派生した関係の人が目の前にいるわけである。たぶん、向かいに座るこの小柄な彼女も、「この人は、私のお母さんの、あの時の仲間の息子さんなんだ」という文脈に、多くの共通点と理解を見出したのではないだろうか。
 満腹した後、相手の希望に合わせてシーロム通りの夜店を冷やかし、もう少しお酒を飲むためにペニンシュラホテルへ向かうことにした。
 正直なところ、数日分の睡眠不足が、頭の後ろの方をぎゅうっと締め付けていた。だけど、仮に僕だって、青春を共有した友人の子どもが訪れる先に(しかも初めての外国の街)我が子が住んでいたら、そいつにできる限りの世話をさせたいと思うだろう。今の僕にとっては現実的ではないかもしれないが、それでも想像はできる。友情とはそういう形をも取りうる、広くて深くて、そして温かな人のつながりのことだから。そして、そのためだったら、僕の眠気など、取るに足らないささやかなものだ。
 夜の川とそこに行き交う舟。あるいは対岸に建つシャングリラホテルの明かりが、ジェスターズバーの大きな窓ガラスの向こうに華やかだ。冷たいグラスを傾けながら、僕はそこで、人生の不思議さに思いを馳せていた。親どうしが、紆余曲折を経て誕生した中東の小国を縁に出会ったのは、30年以上も昔のこと。その友情は今も続いている。そして、その子ども達が、2004年12月のある日、こうやってチャオプラヤ川を眺めている。もしも、このまま僕らが恋に落ちたら、また人生の不思議さが一層深まるんだろうな、とも思った。
 もちろんそれは、ふとそう思った、というだけのことだ。
 夜中を過ぎた。玄関からタクシーに乗り、宿まで彼女を送ってきた。
 翌日のメールには、昨夜のお礼と共に、チケットが取れたので、明日の便でホーチミンシティーまで飛ぶと書かれていた。


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