ヨガ

 時間にすると10分にも満たない間だったけれど、心地のよい感覚に包まれていた。仰向けに寝転んだ床の上で、手足をゆるやかに開いて目を閉じ、インストラクターの歌うような声に合わせ、つま先から順に身体の各部へ思いを集中しながら、ゆっくりと鼻から腹式で呼吸する。睡眠にも似ていると後から思った。
 現実感から切り離された上での心地よさがあった。しかし眠りに落ちる瞬間を知ることがないように、いつからその状態に入り込んだのか自分では分からなかった。同時に、ずっと底の方で、細い線が一本だけ、辛うじて外の世界とつながりをもった覚醒を保っていた。春の昼下がりの電車の座席で、ふっと遠のく意識の感覚というのが近い例えかもしれなない。
 週末、妻と一緒にヨガの体験コースに来てみて、すぐに翌週からの初心者コースを申し込んだのは、何よりこの気分の良さが一番の理由だった。
 もう一つ。その土地にしかないことを体験してみたいという欲求はどこにいても変わらない。だから、インドにいる以上は、何かしらインドらしいことをやってみたいと思っている。
 最初に思いついたのはヒンディー語だが、試すまでも至らなかった。常々、自分は語学の学習に向いていると思っていたのだが、実はそれは誤解だと知ることになった。その言語の美しさや、それを使う人々や社会への興味、こういった背景があってはじめて、習得への努力へと向かうのだ。インド・インド人・インド社会からのネガティブな体験により、デリーに暮らし始めてからすぐ、そういった前向きな思いはおもしろいほどにさっぱりと消えていき、結局一ヶ月も経つころには、ヒンディー語を学ぶべき理由が一つも残らなかった。そしてこれは一年経った今でも同じだ。
 そしてこの点について、自身への後ろめたさを感じていたのも事実だ。せっかくインドにいるのに、それでよいのか、と。
 ヨガは心身に快く、インド文化に根ざしている。しかもこれも常日頃抱いていた「少しは運動せねば」との思いも同時にかなう。悪くない。
 具体的にヨガが何かということについては、単なる運動のための運動とは違うのだろうなという程度の漠然としたイメージしか持っていなかったのだが、渡されたハンドブックや、講師からの教えによれば、こういうことらしい。
 我々の人生には、誕生・成長・変化・衰え・死という流れに伏するだけではなく、より偉大な目標があるはずである。そこに至るには鋭い知性と強力な意志が要求されるが、それは健康な心身があってのこそ。そこで古の賢人たちは、人の衰えの進行を阻止し、心身ともに頑強に保つための完成された体系を作り上げた。このヨガの体系はとてもシンプルで、「適切な運動」「適切な呼吸」「適切なリラックス」「適切な食餌」そして「ポジティブシンキングと瞑想」という五つの原則にのっとっている。
 実際のクラスでは、特に前半の3つについて身体を動かしながら実践していく。
 カパラバティ(頭蓋骨の輝き)という呼吸からはじまり、全体の7割くらいが身体の各所のストレッチ、バランスを保つ姿勢が残り3割。それぞれに名前があって、「太陽礼拝のポーズ」「コブラのポーズ」「蛙のポーズ」「魚のポース」「子どものポーズ」などと呼ばれる。
 何がいいって、楽なのだ。もちろん筋肉を伸ばすのでそれなりの痛みは伴うが、限界を超えてまでということはなく、なんとかまだ我慢できる時間内で終わる。直後に、それと対になる動きが入る。前傾姿勢の次は背中を後ろに反らす、というように。
 さらにそのセットが終わると、仰向けに寝て手足を広げる「屍のボーズ」をとって、ゆっくりと休むことまでが一連の流れになっている。
 運動はしたいけれど楽でないと困るという人間にとっては、これはうってつけだ。
 この「快さ」と「楽さ」が苦痛を凌駕していることにより、毎日ではないにせよそれなりに1ヶ月以上続けられている。しかも、わずかながら上達を感じられる。直立して前屈すると、床に指が着くかどうかだったのが、手のひらごとべったりと届く。まっすぐ足を伸ばして座り、上半身を前屈させていくと、これまた額が膝にに触れるまで曲げられる。両手で頭を抱えたような格好で倒立するヘッド・スタンドが、何の支えも無しに三分くらいは保てるようになる。心なしか腹回りが小さくなって、代わりに腹筋がつき始めたような気さえする。
 しかも、時間の制約上、平日に僕が参加できるのは、朝の6時半から8時のクラスなので、前夜に深酒をせず、早起きする。家に帰ってシャワーを浴びていると、妻がコーヒーをいれて、朝食を整え、お昼のお弁当の準備をしてくれる。いやはや、いいことづくめである。


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