二人で過ごす最後の週末

 2015年が始まって4週間めの金曜日。妻と二人で過ごす最後の週末が来た。
 夜、その日、天王寺に出ていた妻から「マリオットのバーでちょっと飲まへん?」と提案。御堂筋線からつながる地階の入り口の前で待ち合わせる。久々にホテルバーだ。57階から、大阪の夜景を見下ろして。
 土曜のお昼は梅田に出てグランフロント。バンコクのど真ん中、スリウォン通りに本店があるレストラン、マンゴーツリーの支店。サービスや内装も良く、味も相当しっかりしている。特に週末のブッフェはコストパフォーマンスが極めて高い。日本に越してきてからいくつか試したタイ料理屋さんの中で、一番の気に入り。今回は、2週間ぶりである。
 日曜。もともとはちょっと外出の予定があったのだが、妻に風邪の気配があってキャンセル。代わりにというわけではないが、家の近所へ。雰囲気と味とサービスのよいイタリア料理レストランでランチ。築80年という昔の家屋をうまく利用しているし。隙間から入り込む冬本番の寒さも、エアコンや電気カーペットでしっかりと手当されている。1時間前に電話したら、もうテーブルがいっぱいで、バーカウンターに座って食事をいただく。お店の人には恐縮されたけれど、ラベルをこちらに向けて端正に並ぶとりどりのお酒の瓶を眺めながらというのはむしろうれしい。
 妻と二人で過ごす最後の週末は、このようにして、概ね、食べて、飲むことに集中している内に終わった。いつもの通りだけど、少しだけ密度が濃かった。最後なので、という気持ちを二人とも抱えているから。
 バーやレストラン、あるいは旅行へ二人だけで出かけるのは、ないわけではないと思う。ただ、これまでのように、「気が向いたから」というだけで実行に移すのは難しそうだ。それなりの努力と、事前の入念なアレンジが必要になるだろう。
 妻のお腹の中でぐりぐりと動く(動かれる妻は楽ではない)、「人の中の人」が、来週にはこの世に出てきて三人になる予定。スタートしたころには相当先のことだと思ったが、ほぼ10ヶ月というこの期間も、大方の時間感覚と同じく、実際に流れてしまえば、さほどではなかったとしか思えない。
 準備は万端。必要な衣服は洗って太陽にさらして、折りたたんで棚に収めた。あれがいいこれがいいと先達から教えてもらったり、あるいは譲ってもらったものも多い。いざと言うときの病院へ行く手順のメモも、冷蔵庫に磁石でとめてあるし、iPhoneにもMacBookAirのデスクトップにも置いている。
 期待感や希望を抱えて過ごしていく10ヶ月は、もちろんとても楽しい日々だった。どこかちょっと特別なところへ旅行に行く前の雰囲気にも似て、そのことに思いを馳せるだけで、日常に倦みそうな心が引っ張り上げられる。
 だけど、自分が親になるのだという実感がわかない。より率直に言うと、何のどこをどのようにつかんだら、実感と呼んでいいのかすらも見えない。
 それに、「裸で母の胎を出」てくる、小さく無力な存在に対する、計り知れない重圧を伴った責任感に身震いもする。高揚感と表裏一体で、この先、この人の存在がもたらす結果に対する社会への責任感。
 自分たち家族という場を内向きに見ると、子どもを産んで育てていくということは、これ以上はないくらいに個人的な営みで、長く重たく計り知れないことに思える。光すら射さない漆黒の深海にいながら、我が身は黒く冷たい海中を漂っているのか、その底にある柔らかな砂の上を這っているのかさえも知覚できない。
 しかし同時に、人類誕生以来500万年間、それに、今まさにこの瞬間にも、脈々と、世界のあらゆるところで、人間は同じ行動を続けていると捉えてみる観点もある。我々だってその内の一つに過ぎないのだ。こう考えると、少しは気が楽になる。
 これからの日々を、概ねうまいこと過ごすことができたなら、その20年めの区切りに、今度はこの三人で、どこか素敵なバーのカウンターに座ろう。子よ、悪いけれど、最初の一杯はお父さんとお母さんが選ぶシャンパンに付き合え。そして、静かに乾杯しよう。子の成人と、妻と僕との20年と10ヶ月の功績に対して。


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