偏屈な人間

 搭乗案内、ファイナルコールなどのアナウンスが、あまりよいとは言えない音質で、英語、日本語、中国語でスピーカーから流れる。
 牽引されていくジャンボ機。揃いのつなぎを着た整備士が、ずらりと並んだ窓に向かって手を振っている。
 別の滑走路には、車輪が白煙を上げてまた一機着陸した。
 バスターミナル、鉄道駅、港、そして空港。旅にあって常に移動を好む僕は、この手の場所が好きだ。大勢の人が期待を込めてやってくる新しい土地、あるいは喜びと共にもどってくる土地。しかし、その陽気なはずの玄関に、悲しみがふと顔を出す。顔写真の入った身分証を胸に付けた地上職員の手で鳴っている変調された声の慌ただしさも、鳴き声のように聞こえる。
 ここは出会いの場所であると同時に別れの舞台でもある。
 僕が演じた、「香港」という場はもう終演に近い。
 前回のエジプト航空のトラブルで、幸運にもJALに振り返られそのサービスを楽しんだ。今回、チョンキンマンションに入った旅行代理店で手に入れたバンコク行きのチケットは日本航空のはずだった。期待を込めて啓徳空港にやってきたのに、「この路線は、日本アジア航空の機体と乗務員がお供いたします」というアナウンスにがっかりさせられた。
 香港からバンコクへはあっと言う間だ。わずか2時間20分のフライト。3本のビールと一杯のロックのウィスキーが、舌に残る機内食の後味を消毒してくれた。
 ドンムアン空港を利用するのは5回目。関空よりも様子は分かっている。表向きは必要らしいヴィザなんてなくったって問題はない。タイのスタンプだらけのページにまた一つ入国スタンプが加わったパスポートをしまい込んで、空港ホテルの階段を上がり鉄道駅へ。
 40分ほどでファランポーン駅。すたこらと運河へ抜ける。
 真っ黒な顔の日本人が一足先に舟を待っていた。「やや、このルートを知ってるな」という親近感が、互いにわいた。
 昨夏、カンボジアで知り合った人に「静かで雰囲気のいい宿」として紹介された、タイゲストハウスの扉を開けると、そこには数人の日本人の中に、共にインド、ネパールを動いた長谷川君もいた。バンコクへ寄ることは知っていたが、まさか会えるとは。
 シンハビールを飲んで、バンコクの実感を味わう。
 バンコク、いやカオサンは確かに魅力的だ。しかし、日本人の多く集まる宿で、「バンコクはもう何度も来たから、今さら観光はちょっとね」という雰囲気に同調して、皆様と楽しくおしゃべりする気持ちは僕にはなかった。
 「歩き方を持ってる日本人にサイアムの方で出会って、どこ行くのって尋ねたら、ワットアルンだって」「いやー、観光してるなーって思ったよ」と、その場にいたもう一人と屈託なく笑う人がいた。見苦しかった。彼らは、人を見下すことによって自分の優位を確認したいのだ。
 そんな空気に対する反発から、何かしら新たなものを求めて、僕が地図で見つけたのはプラトゥーナム市場。ふと出かけることを口にすると、自分も、ということであっと言う間に小さな団体ができあがった。曰く、「ここだとだらだらしちゃって、何かきっかけがないと外に出ないから」
 「結構。好きなだけここでのんびりとして、会話に花を咲かせて下さい。僕は一人が好きなんです」と、言えたら気持ちがいいのだけど、曖昧な笑みを浮かべた僕はやっぱり日本人宿に集うありきたりな一人。
 乗り込んだ市バスは、軽く接触事故を起こして多少時間をくった。「このバスに乗ると行くはずだ」ということを教えてくれたのは、同調した内の一人だった。
 そう、他者との接触によりもちろんこういった利益だってある。もちろんそれは実利的なことに限らない。いい友人となる場合だってあるだろう。
 読み終わった梶井基次郎短編集との交換を持ちかけ時、ロビーにいた一人が応じてくれた。彼が「どれでもいいよ。どうせ古本屋に売ろうと思ってたから」と、積んだのは「トラッシュ」「青が散る」「アンネの日記完全版」それと阿刀田高の短編集だった。最後の一冊はさほど興味がなかった。しかしあとの3冊はどれも読んだ覚えがある。ただ「アンネの日記」は完全版が出る前のものを読んだきりだった。
 丸善の洋書の上に乗せられた一個の檸檬の物語と、戦争中に隠れ家生活を行いそして収容所で死んだ少女の日記とが、バンコクの一隅で交換された。恐らく、どこか別の状況で出会っていたらモヒカン刈りの彼とも、親しくなれたかもしれない。
 僕が苦手とするのは、3人以上の他者と同時にある程度の意志疎通を図らなくてはいけない状況。疎外感を感じるのだ。いや、そもそもは違和感と言う方が正しい。僕が勝手にそれを疎外感へと仕立て上げる。多数だと、発言の機会も、そして相手を知る機会も減少する。多数だと自分の権力が発揮できないから嫌いなのかもしれない。他者を判断することが困難になった僕は、それへの努力を手放してしまう。
 何も特別な感情を得ているとは考えていない。実際の問題は、そこで終わってしまう僕の態度にあるのだろう。困難を含んだ状況を円滑に動かすため、にこやかな表情で薄い会話をすることに馴染めないのだ。もちろん、出会った全ての人とある程度以上の親密さに至らなければならない、ということではないことは承知している。けれど、できない。その「適当さ」が僕には大いなる困難なのだ。
 僕が旅に求める楽しさとは、何かが違う。例えば、カオサンの宿で日本人どうしで当たり障りのない会話をすることは悪くない。それはそれ、だとも思う。
 けれど、何か小さな塊が本来の楽しみへ至る道を阻んでいる。小さい、けれど確かなもの。それは上海で、豪華な食事をご馳走してもらった晩の感じと似通っている。
 何かを求める過程で、仮に0.1%でも障害を感知する時、十全ではないからとそれを放棄するのか、あるいは抱えたままそれを楽しむべきなのか。前者を選択する僕は、不器用でしかも偏狭な人間だ。


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