大英

 B&Bの二つ目のB。付け合わせだけが微妙に変わる。今朝はマッシュルームが出てきた。水煮の缶詰かなんかだろう。あまりぱっとはしないけど、イギリスの朝食というのはこの程度だろうと認識して腹におさめる。
 今日の目標は、地下鉄・市バスの一日乗車券の元をとる、というもの。まずは午前中に大英博物館を目指す。さすがに、外すわけにはいかないポイントだろう。何があるかと思いをめぐらしても、かのロゼッタストーンくらいしか知らないが、曲がりなりにも「大英」が冠されているのだから、蒼々たる博物館であることは想像に難くない。
 地図で最寄り駅を探し、地上に出る。確かに再び地図と照らし合わせたはずなのに、歩き続けた結果は、一つ前の駅へ出てしまった。東西を読み違えていたらしい。臆することなく再び地下へ。一日乗車券の使用も、午前の早い内から二回目となりよいペースだ。
 ギリシアの宮殿のような外観で、入り口には「できれば、維持運営のためにお一人2ポンド以上の寄付を」と書かれていたので、1ポンドのコインを2枚入れる。空港でよく見かけるユニセフの「各国の小銭寄付」などと同じようにケースは透明で、「他の人がこれだけ入れているのだから」というのがディスプレイされている。中には米ドルのお札も見てとれた。
 入場料は不要で、求められるのは寄付であるのだから、もちろん1ペンスも払わなくたってかまわない。僕も学生の時代にここへ来ていたら、もしかしたら、そうしているかもしれない。でも、ビジネスクラスで飛んできて、財布の残金やクレジットカードの残高をさほど気にすることのない旅をしている今は、透明の箱の嵩を増やす一助は自然な気がした。たかだか2ポンドで何をまったく、という気もするのだけれど。

大英博物館
 外から見た限りでは古式ゆかしいが、一歩踏み入れた現代的な内部には圧倒された。かすかにベージュの混じった白を基調にした輝かしいホールで、天井の向こうには明るい空がある。透明な天井は、幾何学的な広がりのある格子で支えられている。バルセロナでガウディの建築に出会ったとき以来、久々に建造物を見て血が巡った。
 ただ、このエントランス部分も含め、大改修が継続しているために、例えばネイティヴアメリカンにまつわる展示室など、いくつかは閉鎖されていた。
 丸一日ではとても足りないというのはよく耳にする話しだったが、それも見方によるだろう。そもそも、どれほど素養や興味があるかにもよるのだと思う。博物館見物が「暇つぶし」の一つである旅のときには、展示に添えられた案内の文章を事細かに読んでみたりもするのだが、今回はとりあえず歩き回って興味をひくものがあれば、歩みを止めてみる程度だった。
 だから、感想は「いやあ、ホントよく集めたよな」というものだ。確かに、アジアでおなじみの鳥の神、ガルーダもいたし、とんでもないところでは「日本のおみやげ」について考察しているコーナーもあった。ガラスケースの中に陳列されていたのはACE JTBの「春だ!! 花見だ!! 桜の名所!! 桜紀行」と書かれたピンク色の旅行のパンフレットだったり、みやげの典型例としてほたてのヒモまでが並んでいた。「おみやげの『みや』は、神社に由来し……」と説明がなされていたけど、本当なのだろうか。
 またギリシアの古代の展示物の説明に「シンポジウム」の語源が説明されていた。不思議なことに脳味噌が認知する前に反射的にすたすた歩いていた足が止まった。説明を読むと「語源はドリンキングパーティーという意味であり……夜が更けると酔っぱらいは通りで歌を歌ったりして騒ぐ……」ということが書かれており、なんだか古代ギリシア人に妙に親近感を抱くことができた。
 しかし逆に、それではイギリスのオリジナルの展示品は何だろうか、と考えるとさほどないような気がする。テムズ川からの出土品などは見かけたが。
 街角の新聞スタンドに書き出された記事の見出しが道行く人の興味を誘っているが、たまたま今日の夕方のニュースは「少年の胴体がテムズで発見される」であった。
 結局、お昼過ぎにはぐるりと見渡した。次の行き先に決めたカムデンロックという市場へ続く路線の駅へ向かう。途中で無印良品を見かけた。そう言えば、ユニクロも近々オープンするらしく、二階建てバスの広告を頻繁に目にした。
ユニクロの広告
 昼食はやはりパブで。羊肉とローズマリーのパイに1パイントのビール。これまで、イギリスの料理は火を通し過ぎたものが多いと思っていたが、そもそもがじっくり時間をかけて煮込むべき(火を通す)料理というのは悪くないのかもしれない、とこのパイを食べて思った。よく煮込まれたシチューがカップに入り、こんがりと焼き上げられたパイが覆っていた。羊の独特の匂いと、ローズマリーの少しだけひねた香りとがよく調和していた。
カムデンタウン
 カムデンタウン駅を出ると、先ほどまでの雰囲気とはうって変わって、高い建物もなく郊外のちょっとしたショッピングゾーンという趣が漂っている。ただし、そこに主として並ぶ店は、髪の毛が紫だったりピンクだったり、じゃらじゃらとチェーンを身にまとうことを好む人たちのためにあるようだった。
 カムデンロックそのものも、シャッターを下ろした店も多かったが、見た限りでは似たようなものだった。僕は別に骸骨の指輪にも「エスニック」な布にも興味がないのであまり楽しむことはできなかった。
 だが、食べ物屋台には大いに興味を引かれた。シンガポール、インド、ヴェトナム、タイなどの料理屋が軒を連ね、暇そうな一軒の軒先からは「オハヨウ」と声がかかった。せっかくなので、食べることにする。
 ヴェトナム料理屋台でワンタンの入ったフォーを頼み、すする。香草の香りが、ニョクマムの香りが、やはりイギリス料理が続いた胃には余計においしく染み込んだ。別にイギリス料理に倦んでいたわけでもないし、米の飯を渇望していたわけでは決してないが、イギリスでヴェトナムの味を口にするのもいいような気がする。
 パディントン駅で、ヒースローエクスプレスについてちょっと調べておく。明日の朝のグラスゴーへ飛ぶ便がかなり早い時間だからだ。始発から3本めくらいの空港直通特急に乗れば間に合うし、その時間には駅にあるブリティッシュミッドランド航空のチェックインカウンターも開いていることを係員に聞いて確かめた。
フォートナム&メイソン
 そして出かけた先が、かのフォートナム&メイソンである。イギリス王室御用達の食料品百貨店。一歩足を踏み入れると、そこは観光客(主として日本人)でごった返すフロアだった。高級感はあるにはあるが、もちろん僕もそこの本来的意義からすればそれを低下させている側に含まれる。
 興味本位から、せっかくなので各階をのぞいてやろうと思いエレベーターに乗ったが、大きな間違いだった。ドアが開いたそこは、昼の最中に生演奏が奏でられているレストランフロアで、全身の汗腺が大量に汗を噴き出すくらいに緊張して、咄嗟に場違いな自分を見出した。紳士淑女の、上流階級の、大英帝国は健在なのである。大都市ロンドンの、ピカデリーの片隅にひっそりとかもしれないが、確かに。
 最終日にはヒースローでの待ち合わせが半日程度ある予定だったから、一度市内に出るつもりをしていた。だから、別に今日ここで買い物をして荷物を増やす必要はないのだが、何が起こるか分からないので必要最低限のものだけは今日の内に買っておくことにした。
 頼まれ物のダージリンティー(ファーストフラッシュが売られていたのでそれを手に取る)と、友人にジャムと紅茶の小瓶の詰め合わせ(みやげに便利だ)。せっかくだから自分にも何かと物色して、スミレのジェリー(ヨーグルトに混ぜて食べる)と、カレーピーナツ(今後、つまみが必要な場面を想定して)を買った。レジの女性は日本人だった。
 後藤との待ち合わせまでの微妙な時間を国立美術館で費やした。とは言え、中を歩いただけだ。大英博物館ではそれなりに得るものがあったが、こちらはもう僕にとっては何でもなかった。プラドにせよここにせよ、近代西洋の正統的な絵画は僕の趣味とはまったくかみ合わない。
 さすがにイギリス料理はもういいや、と後藤が言うので、少しだけ洒落た感じの「チャイニーズ」の店で夕食。お互い食べ物を注文し、僕はもちろんビールを頼む。ウェイトレスが彼に向かって「あなたは飲み物はいらないのですか?」と訊ねたところ、彼は咄嗟に「ノー」と返事をした。ウェイトレスはそのまま行ってしまった。後藤は怪訝な顔をしていた。あれれ、飲まないとはおかしいなと僕は思った。けれど同時に彼のミスも理解した。
 「ビールを飲まないのですか?」という問いかけに対して、「いいえ、飲みます」との意志表示をしたければ、返事は「イエス」でなくてはならない。否定疑問文へのイエス・ノーというのは日本語への直訳で考えていたら少し混乱するけれど、問われ方がどうあれ、飲みたければ「Yes, I do.」で、不要であれば「No, I don't.」なのである。微笑ましく思いながらそのことを彼に説明したら、もちろん知識としては持っているのだからすぐに納得していたが、それでも彼はビールを頼まなかった。なかなか頑固だ。あるいはシャイなのかもしれない。
 そんな彼の眼前で、僕は大仰にのどを鳴らして冷えたビールを飲んでみせた、当然のごとく。


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