エピローグ

 黒いロングドレス姿の女性が一人、木の螺旋階段に近い籐の椅子に腰掛けている。両手はテーブルの上で軽く重ね合わされている。肩には薄いグレーのカシミヤのショール。少し疲れた表情が見てとれるものの、様々な服装や肌の色をした客で賑わう店内で、なお人目を引く。
 シンガポール、ラッフルズホテルのロングバー。夜が深まり、集った人々が1杯目を飲み終え、陽気な2杯目に取りかかる、バーがもっとも活気づく時間帯。楽団が奏でる音楽と、アルコールを間に挟んだ人々の賑やかな会話がさざめき満ちている。先ほどまでのパーティー会場とは、また異なる種類の時間が流れている。
 彼女は今日初めて出会った人々の顔と名前を思い出し、頭の中の人物リストの適当な箇所に保存する。新たに必要になったいくつかの事項について、方向性と手筈を考える。
 「やあ、あなたもこちらでしたか」
 顔を上げると、洒落たスーツに身を包み、にこにこと笑う一人のシンガポーリアンがテーブルの前に立っている。実際には50歳を越えているはずだが、とてもではないが、見かけだけなら30代の後半がよいところだ。
 彼女が口を開こうとする前に、彼が言う。
 「仕事が終わってお一人でくつろいでおられるところに、ご一緒させて下さいとお願いするほど私は無粋ではありません。ただ、一つだけ、夜を始めるのにふさわしいジョークを披露させてください。先ほどの、ウィットのきいたあなたのスピーチには及びませんが」
 いつものことだ、と思い、彼女は柔らかく肯いてみせる。彼は、縁の太い眼鏡を外し、胸ポケットのチーフでもっともらしくぬぐってから口を開く。
 「我々のシンボルであり、誇りでもあるマーライオンは、下半身が魚で上半身は獅子。なぜ、その逆ではないのかご存知ですか?」
 「なぜでしょう?」と、彼女は儀礼的に、しかし好奇心も含めて問い返す。
 頼まれたタイガービールが彼女のもとに運ばれてくる。
 彼は、大仰に天井を仰いで言う。「残念です、実に残念です。あなたの個人的な時間が始まってしまいました。この続きは、またどこかでお会いしたときに。それが近い内であることを願ってますよ。では、これにて」
 彼はそのままテラスの方へ立ち去って行く。
 ウェイターは、にっこり微笑んで彼女の右手の少し先にグラスを置く。
 「北はどっちの方角かしら?」
 ふと、思いついたように彼女が訊ねる。
 ウェイターは、あらゆる突発事項に慣れた接客のプロにふさわしく、よくある質問ですから、という親近感のニュアンスをその微笑みに付け加え、手のひらを差し出してカウンターの側を示す。
 「こちらでございます、お客様」
 そして、「ごゆっくりお楽しみ下さい」と一言を残して、ざわめきの中に戻って行く。
 彼女はグラスをそっと手に取り、そちらに向けて軽く差し出す仕草をした。一口飲み、彼女は全身の緊張を解く。身に纏った雰囲気が、その色を変える。
 壁の向こうを見詰める。そして合間にグラスを手に取る。それが何度か繰り返され、ビールは飲み干される。よく磨かれたグラス、ていねいに注がれたビール、そして、よい飲み手。エンジェルリングがくっきりと浮かんでいる。飲み口には、口紅の跡。
 見計らったかのように、ウェイターが「もう一杯いかがですか?」と、テーブルに近づく。彼女は軽くうなずき、鉢に盛られたピーナツを一つ手に取る。落ち着いたワインレッドに彩られた爪が鮮やかだ。細い指に挟まれ、カリッと小気味の良い音を立てて殻が割られる。ロングバーの伝統ある格式にのっとって、その殻は床に落とされる。
 今日の昼間の、ここより10度ほど緯度の高い街でのことを思い出す。グラスを押しやったとき、目の前に座る男が浮かべた沈痛な表情を、わずかな痛みを持って思い出す。そう言えば、あのグラスもとても冷たかった。
 泣いてごらん。少し、楽になるから。
 だけど、私がそのことを彼に言うわけにはいかなかった。それは結果的に、よけいに深く傷め、損なうことになるからだ。
 それに、手持ちのカードにいつも涙があるとは限らない。泣き方というのは、意外にあっさりと忘れられてしまうものなのだ。心の奥深くに積もった感情は澱み、堆積され、そしてこびりついていく。剥がしさることが次第に難しくなっていく。
 そして彼女は、こう思い至る。「たぶん、私もこの間まで同じ顔をしていたのだろう」
 彼にも、涙の流し方を思い出させてくれる人が現れますように、と、切実に願う。あの日、あの人が私に声をあげて泣くことを手助けしてくれたように。
 切なさと現実認識とが、蝋燭の火のようにしばし揺らいだ後、後者が彼女の心情を制する。終わったことは、すべからく終わるべくして終わったのであり、これから起こることは、少なくともそれが起こるまでは限りなく善である、という信条に基づいて。

 彼女は深夜のホテルの一室で、ベッドに腰掛け、傍らの受話器を上げる。外線番号を押し、国際電話の識別番号を押し、81に続けて一連の番号を続ける。窓の外には、都市の夜景がきらめいている。
 しばしの沈黙が部屋を包む。そして口を開く。「もしもし、うん、私」
 暗い海底を伸びるケーブルを、一筋の信号が伝わる。
 「今、ホテル。仕事が終わって、ちょっと一人で考え事しながら飲んでたから。まだ起きてた?」
 「そりゃあ、暑いわよ。だってシンガポールだもん。でも、タイよりは過ごしやすいかな。こっちの方が赤道に近いのにね」
 「元気だったわよ。だいじょうぶだと思う。希望的観測も混じっているけど、でも、そう思う」
 「そういうわけでもないんだけど。いずれにせよ帰ってからゆっくり話すわ。あなたのことも説得しなくちゃいけないし」
 「だめ。今は教えない。作戦練る必要があるんだから」
 「遅くなっちゃってごめんね。うん、おやすみ」
 そっと受話器が戻される。
 白いマーライオンの口から静かに流れ出す夜気が、マレー半島先端の小さく清潔な都市国家を満たしていく。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 僕は再びいつもと同じ土曜の目覚めを迎えようとしていた。いや、それよりも少しばかりひどい頭痛と、喉の渇き。電話は鳴らない。サイレントモードに切り替えておいたからだ。
 僕の中で二つの陣営が敵対していた。このままベッドの上で寝続けていれば、頭のうずきは時間と共に和らぐだろう。だが、喉の渇きはいやが上にも増す。身体を起こして冷蔵庫までたどり着けば、喉は潤うが、血液のめぐりはよりひどくこめかみを締め付ける。どちらに転んでも勝ち目のない、まったく不毛な争いだった。
 ちらりと枕元の時計を見たら、もう真昼だったが、目をつむり直してもうしばらくは無理矢理闇の中に潜り込むことにした。とてもじゃないけど、3歩だって歩けない。

 どれだけ時間が経ったのか、よく分からない。水分の枯渇に身体が耐えられなくなって、転がり落ちるようによたよたと台所まで歩いた。無益な戦闘における、喉の渇きの無意味な勝利。ミネラルウォーターのキャップをひねり、こうなることを予期して昨夜から出しっぱなしにしておいたガラスのコップに注ぐ。冷えた水を一息に飲み干す。
 冷蔵庫の扉にはりつけてあるキッチンタイマーを睨む。表示されている時刻は、午後2時だった。たっぷり10時間は寝たことになる。ずいぶんと健康的じゃないか、と自虐的に思った。
 居間のカーテンを開くと、庭の緑がまぶしい。木々の葉の向こうに見上げる空は、くっきりと青い。
 もう一杯水を注いだコップを持ち、椅子に腰掛ける。焦げ茶の猫が悠々と庭を横切る様を、ぼんやりと見下ろしていた。
 ため息ともあくびともつかない、長い息の固まりが口からこぼれる。10時間前の酒の匂いがした。トイレに立った。小便も、やはり10時間前の酒の匂いがした。正確には、そのときには酒だった物が時間と共に変容した、得体の知れない匂いだ。
 熱いシャワーを流しっぱなしにして、ずいぶんと長い時間その下に立っていた。エアコンの効いた部屋でバスタオルで身体を拭いていると、ようやく人心地が戻ってきた。
 コーヒーをいれようかと思ってヤカンをガスコンロにかけたが、あまりに天気が良いので、思い直して水着を着けてプールに出ることにした。サングラスをかけ、バスタオルと飲みかけの水のペットボトルを手に持ち、サンダルを履いて階段を降りる。
 木陰に置かれたデッキチェアに寝転がる。めずらしく今日はまだ誰もいない。辺りは静かだ。
 一眠りしようと目を閉じかけたところに足音がした。すぐ近くで、遠慮がちに僕の名前が呼ばれる。
 「手紙が届いてますよ」と、門衛が絵葉書を一通手渡してくれた。彼は同じ手に今日の新聞も持っていたけれど、「悪いけど、そっちは部屋の前に置いおいといてよ」と、伝える。
 絵葉書は、青い闇の中にライトアップされたマーライオンの写真だった。その口からは、勢いよく水がほとばしり、中空に弧を描いている。上部には「Singapore」と書かれている。誰がどう見たって、シンガポールの風景だって分かる。わざわざ書くまでもない。
 だが、表を向けてみると、金魚鉢の図柄の切手に押された消印は「世田谷」だった。同じペンの異なる筆跡で、上下に半分ずつメッセージが書き込まれていた。
 「空港まで見送りに来てくれてありがとう。ビール、一緒に飲めなくてごめんなさい。でも、仕事が終わってから、こちらでちゃんと飲みました。時間差のある、乾杯。日本へ寄ることがあったら、連絡ください」
 「ずいぶんと有能なガイドを紹介してくれるらしいので、楽しみにしてる。ただ、ガイドをつけて観光をするのは、一人ではもったいない。俺が行く来週は、とりあえず酒盛りをしよう。でも、その次はそろって遊びに行くことにするよ」

 小一時間ほどうつらうつらとしている内に、地球が小一時間分回転し、椰子の影が僕の上から滑り落ちていった。じりじりする日射しで目が覚めた。汗をかいたからか、健康的に日光浴をしたからか、ずいぶんとすっきりした気持ちになっていた。
 ボトルに口をつけて、すっかりぬるくなってしまった水を二口ほど飲み、プールに飛び込んだ。水底にゆらめく光を眺めながら、ゆっくりと泳ぐ。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 部屋に戻って、扉の前の新聞を拾い上げた。もう一度シャワーを浴びて、服を着た。枕元に置きっぱなしだった携帯電話を手に取る。
 同じ相手から着信が3回あった。履歴を見ると、朝の9時過ぎと(眠りに就いてからわずか5時間後だ)、お昼と(無為な戦いののろしが地平線の向こうに上った頃合いだろうか)、それからつい30分前だった。
 3度目は出られたはずなのに、申し訳ないことをした。その番号にかけ直す。
 「今晩、空いてる? 友達が集まってご飯食べることになってるんだけど、よかったらおいでよ。日本から知り合いが来てないといいんだけど……」
 知り合いが日本から来ているから、というのは、確かに誘いを断る方便としては最適だ。僕は、しばしばこれを用いた。偶然にして、先週に関しては事実だったが。
 どうしても面倒が先に立ってしまうのだ。知らない人と出会うこととか、気を遣った初対面の会話とか。それよりも、一人で過去を思い出してそこに浸っている方が、心地よかった。あの時にもしも、というポイントに戻って、いくつも明るい未来を想像することができた。彼女からの電話で、それが現実になったと思った。
 だけど、それはもはやあり得ないことだった。地球は留まることなく回転し、川の水は常に流れ続ける。彼女は変わってしまったのだろうか。いや、そうではない。あらゆる存在は、時間と共に姿形を変えていく。あるいは、有り様その物さえ変化していく。時のひずみの渓谷にすっぽりと嵌っていたのは、僕の方だ。時間が無為に過ぎていくことを、許してしまっていた。それも、少しばかり長すぎたような気がする。
 僕は自分に言い聞かせるようにゆっくりと首を左右に振って、「だいじょうぶだよ。ありがとう。何時にどこで待ち合わせればいい?」と、答える。
 僕はそうするべきだった。
 「オッケー。じゃあ7時にランスワンのスターバックスで」
 それまでには少しばかり時間がある。今はまだ夕暮れの手前だ。だから、僕は川を見に行くことにした。チャオプラヤエクスプレスに乗って、少しだけ遡って折り返して来よう。6時半にタクシン橋に戻ってスカイトレインに乗れば間に合うだろう。
 僕は川を眺める。そして、川に流すものがある。果たして、チャオプラヤ大なまずはこれを気に入って捕食してくれるだろうか。
 過ぎ去りし、日々。


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